ヴェトナム製の焼物を、景徳鎮製だと思い込んで描き写し始めたことがある。描き写しながらヴェトナムっぽいと思いはじめ、それがヴェトナム製ではないかと疑いに変わったのは、8割ほど描き終えた頃。
このことがあってから、描き写す前に生産地をよく確認するようになった。
イギリスのヴィクトリア&アルバート美術館にあるビールジョッキを画面上で見た時も、見た瞬間は景徳鎮製のように見えた。説明にはJapanとある。説明を疑うわけではないけれど、描き写しながら、景徳鎮製ではないと確信した。
その後に、景徳鎮製の焼物が恋しくなって、同じくヴィクトリア&アルバート美術館所蔵のビールジョッキを描き写した。輪郭線がしっかり描かれている。ピリッとした緊張感のある構図。私の手が覚えている景徳鎮の絵付けだと嬉しくなった。
景徳鎮製の青花に輪郭線が描かれていることや、ヴェトナム製の青色が薄いこと等は本に書かれていることで、私が発見したことでも何でもないのだけれど、本に書かれているとを描き写しながら確かめることができると、嬉しくなる。
一方、描きながら疑問に思うこともある。描き写しながら推測して、それを本で確かめられた時も、答えを見つけたようで、共感を得たようで嬉しくなる。
今までに描き写した焼物は、中国景徳鎮製をはじめ、韓国製、日本の伊万里焼、ヴェトナム製、ドイツのマイセン製、ロシアのグジェリ焼。どれも同じ白地に青い色で絵を描いた焼物だけれど、国によって違う。描き方や描かれる内容が違う。違うのに地域や時代で似た傾向があるのがおもしろく感じられる。それは目で見ただけではなく、手の記憶による実感もともなっている。
そろそろ、中国を離れて他の国の焼物を写してみたくなってきた。手が記憶することを知って、描き写す手がどんなことに気が付くのか、興味がある。それは、知る人は知っていることで、本のどこかに書かれていることだろう。それでも手がうったえることを調べ、手が記憶することをつなぎ合わせて物語にするのは、大変だけれど、楽しい。手には良質の記憶を蓄積したい。
